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悲しむ人々は幸い

マタイによる福音書5章4節には
悲しむ人々は、幸いである
その人々は慰められる
という聖句があります。

この聖句に限らずそうなんですが、いくら読んでみても意味が分からない。
この聖句について言えば、悲しいのに何で幸いなんだと思い、何か裏を読まないといけないんじゃないかとかいろいろと頭をひねって考えてしまいます。ただ、時折、日々の出来事によって、「あっ、そうか」と気づくことがあります。

悲しい時のことを考えてみましょう。
悲しむ時、一人の世界に入って落ち込んでいます。
まわりはほとんど見ることができません。
神さまに向かって祈ることすら難しいこともあります。
でも、頑張って祈ってみる。
そして、ちょっと周りを見回してみると、愛する家族や心配してくれる友の姿があり、
あ、私には大切な人がちゃんといるんだ
ということを再認識できます。
これって、すごい恵みかもしれません。

悲しい時は、慰めてくれる大切な人々がいることを認識できる時だったのです。
わたしは一人で生きているからそんな人はいないと思う人もいるかもしれませんが、そんなことはないはずです。自分自身がその人たちを遠ざけようとしているだけかもしれません。もしかするとその人はどこか離れた場所にいるのかもしれませんが、祈りによって慰めてくれる人が必ずいるはずです。
人間は一人で生きることは出来ないようになっているので、自分のこだわりをすべて捨て去ってもう一度周りをみまわしてみると、神さまから遣わされた人がちゃんとそこにいて慰めてくれるはずです。

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赦す一瞬


高山貴久子(こうやまきくこ)さんという方の「赦す一瞬」という詩がなんだか心に引っ掛かっています。

特に最後の部分
起こしてしまったことを
責めることは当たり前のようだけれど
起こしてしまったことを
赦す一瞬は
永遠にかえてあまりある

という部分です。

わたしたちはとにかく相手の失敗を責めてしまいます。
そんな時、とにかく一瞬たりとも赦すことはできないと頑なになってしまうのですが、
一瞬でいいから相手を赦してみるということが必要なのかも知れません。
失敗を赦すことはそれほど大したことではないはずなのですが、
その簡単なことがなかなかできないという、
小さな自分を思い知らされる箇所でした。


いつも訪問してくださってありがとうございます。
最近なんだか忙しくって、更新が滞ってしまいました。
ゆるゆると更新することになるかもしれませんが、よろしくお願いします。

30聖書は生きるための教科書②


そんな失敗ばかりの人間であっても神さまは見捨てたりはしません。聖書の中の失敗ばかりする人間に対してもいつも神さまは手を差し伸べ、優しく接してくださっていることが分かります。わたしたちの実生活の中であっても、神さまがどのようにしてわたしたちに接しているかを深く考えてみると、いつもわたしたちに寄り添ってくださっていることを知ることができます。どんなに辛いときでも、わたしたちが倒れてしまわないように支えてくださっているのです。
神さまはどんなに罪を犯しても赦して下さいます。人を唆して、その人を神さまから引き離そうとすると、神さまは怒りを発しますが、そうでなければ神さまはすべてを受けれてくださっています。神さまに祈り求めたことはすべて聞き入れてくださっています。
聖書は単なる読み物ではありません。生きるための教科書なのです。実際に生きる上で必要なことが書かれており、教科書から学び、実生活に生かすことによってわたしたちは生きることができるのです。
<第30話終わり>

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30聖書は生きるための教科書①


聖書にはいろんな人が登場します。罪を犯した人、葛藤に苦しんだ人、苦難に悩む人、約束を守れない人、挫折する人、裏切った人などさまざまです。それらの悩みや苦しみはわたしたちの苦しみそのものであったりします。成功した人の話はあまりありません。ヨブのような人であっても悩み苦しみました。ダビデも失敗をし、ソロモンも苦悩したのです。エリヤも死を望むほどに苦しみました。
成功した人の話よりも失敗した人の話の方が学ぶことが多いように思えます成功した話に共感したり、そこから学んだりすることはあまりないのかもしれません。失敗した人の話を通じて聖書が教えてくれることはたくさんあります。人との付き合い方や、仕事の仕方、苦しい時の心のありようや罪を犯した時の態度など、いろんな人が実体験をもって教えてくれています。そんな人たちが何を糧に生きていたのか、何を失ったから苦悩したのかを考えてみると、悩みや苦しみから自分自身を救い出す手がかりが得られるかもしれません。
自分の失敗は冷静に見つめ考えることができないのですが、人の失敗は冷静に判断し、もっと良い策をアドバイスすることができます。そのアドバイスを誰かに伝えようとしたとき、自分自身にかかるプレッシャーを感じて、自分のいつもの失敗を初めて認識できるような気がします。
<つづく>

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29みことばを心に留める③


みことばを毎日ひとつ心に留めて行動してみましょう。自分の心が少しずつほぐれていくのを実感できると思います。違った視点を導き出してくれることもあります。日頃悩んでいたことが、こんなところに道があったのかと気づかされることも多いのです。
好きなみことばを選んでもいいでしょうし、なんとなく惹かれる言葉を選んでもいいと思います。苦しい時に聖書を開いたら、なんとなくそのみことばが目についたというものでもいいでしょう。意味が分からなくて、ずっと考えてみたら、なんとなく覚えてしまったというみことばでもいいかもしれません。イエスさまは聖書を通して、答えを与えてくれることが多いのです。なんとなく誘導され、わたしたちにみことばを教えてくださっています。そのみことばを通してイエスさまはわたしたちに力を与えてくださっているのです。
<第29話終わり>

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29みことばを心に留める②


こんなにわからないことだらけなのに、そこには心を惹きつける何かがあります。「話にならない」とか「ちんぷんかんぷん」だとか「さっぱりわからない」と言って、切り捨てることのできない権威と魅力がその言葉には満ちあふれています。
わたしたちにできることは、そのイエスさまの言葉を心に留めておくことぐらいです。ずっと心にとどめておくと、実生活の中でふと気づくことがあります。わたしたちの視野が狭すぎて、何も見ていなかったことに気づかされたり、あまりにも心が頑なで、自分の考えが間違っていることに気づかなかったり、いつもと同じ行動を繰り返そうとして間違っていることに気づいたりするのです。
それがイエスさまの言われていることなのかどうかはさっぱり分かりませんが、不思議な気づきがあることは確かです。みことばは不思議な力を持って、わたしたちに気づきをあたえてくださるのです。
<つづく>

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29みことばを心に留める①


新約聖書を読んでいても、イエスさまの言われる意味がよくわからないことがあります。尋ねた人の質問に対する答えになっていないのではないだろうかと思うこともありますし、なぜこのような問いかけになってしまうのだろうtかと思うこともあり、ずいぶんと悩まされます。しかし、「これはおかしいでしょう」とは反論できない権威に満たされており、逆に深く考えさせられてしまいます。そして、考えれば考えるほど、分からなくなるのがイエスさまのみことばなのかもしれないと思えるのです。
不思議なのは、文章上は会話として成立していないのに、聖書の中でイエスさまと話している相手は納得しながら話しています。まるで相手の心を見透かして、問いかけていないことまで理解して答えを話しているかのようです。また、理解不能と思われる箇所もあります。具体的にどうしたらよいかわからない箇所もたくさんあります。イエスさまがわたしたちに何を期待しているのか、分からないことの方が多いかもしれません。
<つづく>

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28一人ひとり違う聖書②


どんなに頑張っても人それぞれ個性を持って生きているのですから、まったく同じものが見えるようになるとは思えません。人それぞれ視点も、視野も違うのですから、違うものを見ていることをお互いに認め合えばそれで済む話ではないのだろうかと思うのです。人間の生き方の正解は一つではないのです。同じ生き方など一つもないのですから、理解の仕方も人それぞれ違うはずなのです。
ただ、視点が違うことを認めて、お互いに分かち合えば、実りのない論争が、実り豊かなものに変わっていくのです。相手の視点を理解することができれば、自分自身は一つの視点を手に入れたことになります。今まで一点から見ていた出来事が、違った角度の出来事が加わり、薄っぺらい平面的だったものだったものが立体となって動き出します。今までよりも生き生きとしたものになるはずです。
聖書の理解に必要なのは文字の解釈ではないはずです。神さまの考えをほんの少しだけ理解し、自分の生き方を変えて、自分の出来る事で、神さまの仕事にほんの少しだけ協力し、神さまのみもとに少しでも近づくことができるようにと努力する、そのために聖書を読むのではないかと思うのです。
<第28話終わり>

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28一人ひとり違う聖書①


ときおり、聖書に書いてある解釈に対して個人的な見解の違いを議論し、正しいのはどちらだと論争する人がいるのですが、それは本当に必要なことなのでしょうか。わたしたちが聖書を読んで理解しようと思うと、心の窓を開いて読まなければいけません。わたしたちは聖書のことばを心の鏡に映してしか見ることができないのです。ところが、鏡の周りは深い霧に覆われ、鏡は曇り、しかも歪んでいるのです。こんな鏡を通してみていては、とても正しく知ることはできません。信仰が深くなるにつれて、心の霧は少しずつ晴れていくようです。気づきを分かち合うことによって鏡の曇りを消していくことができます。行動することによって鏡の歪みを直していくことができます。でも、どう頑張っても、イエスさまの心の鏡にはかないそうもありません。「わたしはその履物のひもを解く資格もない」と言ったヨハネの足下にすら遠く及ばないのです。だからと言って、鏡を磨くことを止めるわけにはいきません。正しく見えていないものを互いに批判し合うのではなく、心の中にある鏡のひずみを直し、曇りを消し、霧を晴らしていく仕事を一生涯続けなければなりません。
<つづく>

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27理解できない聖書②


人間の頭はたくさんのことを一度に処理できないようになっていることをいつも思い知らされます。普通の本ならそんなことをしなくても順に言葉を拾っていけば、頭の中に全体をイメージして理解して行けるのに、聖書だけはそういう訳に行かないのです。不思議なことですが、言葉を順に拾っていくだけでは理解できないのです。
全く理解できなかった最初のころと、今と何が違うのだろうと考えてみたとき、以前は頭で読み、論理的に考えていましたが、今は心で読み心で判断しようとしています。以前は神さまの業をどうしたら実現できるかと考えたのですが、今は神さまが今行っているわざはどんなわざなのだろうか知ろうとしています。以前は細かな文字の違いが気になったのですが、今はどのように書いてあっても、イメージで理解しようとしています。それにもまして、一番違うのは神さまの存在を信じ、神さまが人間に働きかけていることを認めていることでしょうか。物理的な事象を大事にし、信じられない現象は、起こり得ないと思っていたのですが、神さまのわざとして認めることができるようになったころから、聖書に書かれていることが少しずつ意味を成し始めたような気がします。単に出来事として文章を追っていくと、まったく面白くないし、まったく理解できません。しかし、神さまがそこにいると思って読むと、そこに神さまがおられるように見えてきます。神さまは人間を愛していると思って読むと、神さまが愛した人間の姿が見えてきます。ほんのちょっとした気持ちの違いでこうも理解が違うものかと思うのですが、視点が変わったことによって、聖書は興味深い読み物に変わったような気がします。
<第27話終わり>

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