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24好きなみことばを選ぶ①


「聖書の中で好きな聖句がありますか。」と聞かれてすぐに、「『○○』の△章▽節に書かれてある『××』というみことばです。」と答えられる人は少ないかもしれません。そもそも聖句を覚えようということもしないし、聖書を開くこともなければ、そんな聖句を知る機会はなかなか持てないかもしれません。たとえクリスチャンであったとしても、しばらくは好き嫌いという話よりも、理解することで懸命になり、心に染みこむ前に読むことを諦めてしまう人もいるくらいです。
好きな聖句を持っている人は、「わたしが苦しい時にこの聖句に出合って救われた」と言うのですが、その出会いは奇跡に近いものかもしれません。そのような経験ができる人はとても幸運な人だとしか言いようがありません。その幸運は神さまの導きだと思うのですが、やはり聖書にふれる機会が多いことが前提だと思います。
<つづく>

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23自分を変えた聖書③


さらに読み続けると、その想像した登場人物の中に自分の性格が垣間見えるような気がしたのです。聖書が心の鏡になっているのではないかと思えました。自分の性格を文字で表そうと思っても、なかなか言い表しにくいし、自分の考えをさらけ出すのは怖いので、文字にして人に示そうなどと考えることはできなかったでしょう。しかし、聖書の登場人物の像を借りて、自分の気持ちを書き表すことができるのは、とても新鮮でした。
さらに神さまのことが少しでも分かるのではないかと、読み続けるのですが、さすがにそこはベールに包まれているようです。あと何十年か読み続けたら、神さまはそっと教えてくださるかも知れませんが。
<第23話おわり>

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23自分を変えた聖書②


聖書を初めて手にして読んだとき、聖書をゆっくり読むという、たったそれだけの簡単なことがなかなかできません。一箇所を何度そんなときに聖書100週間と言うプログラムに出会い、ゆっくり考えて読むということを教えてもらいました。ゆっくり読んでいるうちに、聖書に出てくる人々は非論理的で、非合理的でなぜそんな行動をしてしまうのかと思うようなことばかりが書かれていることが見えてきました。そして、いろいろと考えているうちに、そもそも人間は合理的に考えて行動していないということがわかってきました。価値観も人それぞれ違うようです。すべてを論理立てて因果関係をはっきりさせているわけでもありません。そんな行動を読めない人たちが書かれているのに、その人たちの背景や思いは全然書かれてありません。それならそこは想像で補わないといけないのです。そうやって想像していったのですが、それが現実世界に生かされてきました。いろんな人と付き合う中で、この人はどんなことを考えているのだろうかと考え、それが自分の考えと違っても、どれだけ非合理的であっても、その多様性を受け入れられるようになってきました。
<つづく>

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23自分を変えた聖書①


聖書に触れることのなかった時、わたしはもっともっとドライな人間だったような気がします。できるだけ論理的に、できるだけ合理的に考え、割り切って行動していました。
聖書を読み始めたとき、「こんな非論理的な話があるものか」と思う箇所もたくさんありました。そもそも意味のわからない箇所もたくさんありました。それでも聖書を読み続けたのは論理的に考えればどんな書物でも理解できるだろうと考えたからです。まったくわからないので、とりあえず理解はさておき、一度すべてを読んでみようと思い、ざっとすべてを読んでみたのですが、あまりにも解らなさすぎて、どうしていいかも分かりません。もう一度読んでみたら分かるだろうかと読んでみたのですが、やっぱり分かりませんでした。聖書は何を教えているのか、そして聖書から何を学べばいいのかということすら分かりません。
聖書の解説を読むと、ここはこう解釈すべきだとか、ここは間違っているとか、という言葉ばかりが目につくのですが、どうもしっくりこないのです。
<つづく>

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22自分を知る③


ただ、聖書というのは本当に不思議な読み物だと思います。聖書の中にいる人たちの生き方を通して、自分の感じ方を明確にしていくと、うまく説明できないところが現れてきます。人が感じていることに対して自分の重視するところを消して行かないとうまく表すことができなくなります。自分が感じている違和感は、自分の考えを矯正するきっかけになるかもしれません。それは簡単なことではありませんが、人の苦難をちゃんと理解することによって、自分がどう接すればいいのか、自分が苦難に直面した時にどのように乗り越えていったらいいのかという道しるべをたてることができるような気がします。
聖書に登場する人は神さまが目を留めた人たちです。いいところを持った義人もいれば、悪いところばかりの罪人もいます。苦難をなんとか乗り越えようとして頑張った人もいれば、苦難から逃げようとした人たちもいます。この人たちの生き方を心に映しだしてみて、自分自身の心の中を表していくことが聖書を読む一つの目的なのだろうと思います。そして、み心のままに自分を投げ出して生きることができるようになり、神さまに従うことこそが神さまがわたしたちに求めている姿なのかもしれません。
<第22話おわり>

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22自分を知る②


一人ひとりが違う心を持っているのですから、目の前にいる人の同じ行動を見ていたとしても、人によっても感じ方は全く違います。苦しむ人を見て、いつも苦しい思いをしてかわいそうだと思う人もいれば、苦しみは自分が頑張らなかったのだから自業自得だと思う人もいるし、今彼らは未来にむけて努力していると思う人もいるのです。苦難を目の前にして頑張っているひとを見て、苦難に直面してかわいそうだと思う人もいれば、どんな苦難も乗り越えようとする努力家だと思う人もいるし、苦難を乗り越える力を与えられて羨ましいと思う人もいるのです。
同じ行動に対して、一人ひとり感じ方が違うのですが、それはその人の心の中で最も重要だと思うことが現れることを意味しているのだと思います。強く感じたことというのはその人が重視していることを示しているのです。人間は重視していないことは無視してしまいます。人間の感じ方というのは教えられるものではありません。いくら教えられてもわからないことはどうやっても理解できないのです。
<つづく>

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22自分を知る①


聖書を読む理由はいくつもあります。人を理解する、特に人の痛みを理解することを考えて読むことができます。ただ、その時に人を理解することを通して自分を理解するということもまた大事なことなのではないかと思うのです。人の心の中は複雑で、どんなにたくさんの人がいたとしても、同じ心を持つ人間はいません。そして、その心を持っている自分自身が自分の心の中を自分で理解しているかと言うとそういうわけでもないのです。人の感情を自分の心に映しだすという訓練と、自分の感情を表すという訓練を積まないと自分の心の中は自分自身にもわからないようです。
自分の心の中であっても、自分に見えていない部分があります。他人から見えている自分の姿もまた、その人に見えていない部分があります。相手しか知らない自分も自分自身であり、自分しか知らない自分も自分自身なのです。そして、自分も、相手も知らない自分自身もいるのです。
<つづく>

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21聖書から気付きによって成長する③


聖書箇所を心に留めて思いを巡らしていると、必ず気づきがあります。人間は気づきによって成長するので、多くの気づきを重ねて行くことで、大きく成長することができます。いろいろと気づきを重ねていくと、矛盾するようなことがらが出てくるもあるかもしれませんが、そんなに気にすることはありません。自分の体調の違いによっても、状況の違いによっても気づきは異なります。そんな時はその違いを意識して考えているうちに新しい気づきを得ることができます。
人間的に成長するために聖書を読みましょう。いろんな気づきが、自分の心を豊かにし、人間関係を良いものにしていくはずです。読んだ時間以上に気づきの時間をたくさん取るようにしましょう。それが豊かな実りをもたらすはずです。
<第21話終わり>

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21聖書から気付きによって成長する②


まず、一日に読む量を決めましょう。読める時に読めるだけ読むという方法も確かにありますが、これだと先へ進むことばかりに気を取られて、気づきを考える暇がないのです。一週間単位でも良いかもしれません。一週間で一書という読み方だって考えられます。それなら旧約聖書39書、続編12書、新約聖書23書の合計78書が約1年半で読めることになります。ただ、一週間で1ページしかないヨハネの手紙3を読むとなるとどうも分量が少なすぎるように思えます。その一方で100ページ以上もあるイザヤ書は1週間で読む分量としては多すぎます。
読む分量を決めるのは気づきを発見しやすくするためです。多くの中から気づきを探し出すのは難しいし、少ないところから探し出すのも大変です。頭の中になんとなく内容が残っているという状態を作り、聖書を眺めながら考えると言う状態を作りたいのです。ですから、分量的には1章とか、2ページとかいう量がよさそうです。詩編119や福音書などはもう少し工夫する必要はあると思いますが、基本はこれくらいの量で、試行錯誤しながら適当な分量を見つけるのがいいと思います。
<つづく>

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21聖書から気づきによって成長する①


聖書を初めて手にして読んだとき、聖書をゆっくり読むという、たったそれだけの簡単なことがなかなかできません。一箇所を何度も何度も繰り返して読むということもなかなかできません。クリスチャンである限りは、聖書の中に書いてあることを知りたいと思うし、理解したいと思っているのですが、何度読んでも、中身はわたしの心の中をすり抜けてどこかへ消えていってしまいます。心の中には通っていった後すら残っていないのです。
読み通すことも大事なのですが、読み通すことばかりに気を取られていると、中身はどうも心に留まっていかないようです。読み通すことよりももっと大事なことがありました。それは気づきです。何か感じたこと、気づいたことこそが大事なのです。それらのことを残していくことこそがすり抜けていかない読み方だと思うのです。
<つづく>

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