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18多様性②


自分にとって価値あると思うことが、万人にとって価値があるわけではありません。皆が同じ道を歩まなければならないわけでもありません。自分ならこうしたら考えやすいとか、こうした方が進めやすいとか、こんな進め方の方が安心だとか思うことは多々あるのですが、それが高じていつの間にか、これでなくてはならないのだという考えに変わっていたりしないでしょうか。人の歩む道まで、自分の考えている答えしかないと思ってしまい、人の生き方まで強要してしまうようなことがよくあるのです。
人の意見はよく聴いて、よく考えなければなりません。相談を受けたからといって、それは自分の生き方を教えてほしいと頼まれているのではないはずです。その人が何を大切にしているのかで答えがまったく違うものになるからです。相談をした人の答えをそのまま自分に当てはめて行動するのも問題です。どんなに頑張ってもその人にはなれないのですから、自分の心の中を理解して、どう行動しないといけないのかは自分自身でよく考えないといけません。
<つづく>

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18多様性①


前回は多面性の話をしたのですが、多様性についても考えてみましょう。

人間の価値基準は多様で、同じ人間は一人もいません。大事だと思うこと、やってみたいこと、一緒にいたい人、夢中になれること、人との関わり方、仕事のスタイル、人それぞれ違うのです。ところが、人がそれぞれ違うことを理解することはそれほど簡単なことではありません。自分にとって当たり前のことでも、それが他人にとって当たり前のことだとは限りません。失敗することを嫌う人もいれば、結果は気にしない人もいます。プロセスを楽しむ人もいますし、苦しむプロセスを乗り越えたときの達成感を欲する人もいるのです。
<つづく>

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17多面性②


ところが、誰かと同じものを見ていると思ってしまうと、自分と同じ光景を見ていると思ってしまいます。共通の体験があれば、その時自分の見たものは他人も同じものを見たと思いがちです。自分の知っていることは、他人も知っていて当たり前と思うのです。
人間は一つのことを多面的に捉えることが苦手なのです。物事を多面的に捉えることができる人は知能指数が高いそうです。わたしのような普通の人間が物事を多面的に捉えようとすれば、すこしばかり努力をしなければなりません。意識していろんな面を考え、その特徴を想像する必要があるのです。
他人の言葉が理解できない時は、本当に同じものを同じ角度から見ているかどうか確認してみましょう。同じモノであっても、別の観点から見ているのではないかと疑ってみましょう。聖書を読んでいて、神さまの言われることはほとんど意味が分かりません。それはわたしたちの見えていない部分をも理解して話しておられるからです。わたしたちが神さまに見えている部分も見えれば良いのですが、それは推測するしかありません。どんなに頑張っても神さまと同じ目を持つことはできないかもしれませんが、努力してみることは大事なことかも知れません。

<第17話おわり>

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17多面性①


わたしたちは物事の一面しか見ていません。しかも、それは物事のほんの一部分かもしれません。そのために、人と意見が食い違ったり、言い争ったりすることはよくあることですが、違う部分を見て「自分の方が正しい」と言い合うのは不毛な議論です。自分自身が物事の一面しか見ていないことを認識しなければなりません。そうでないと、神さまの言葉でさえも、「わたしの方が正しい」と主張しかねません。
物事はいろんな方向から見ないと分からないのです。一面だけを見てその物事を決めつけてしまうと間違った判断をしてしまうのです。丸く見えているものが横から見ると四角だったり、三角だったりしてもなにも矛盾はありません。現実的にそういう立体をつくることも可能です。そういう立体を目の前にして、丸だと主張しても他の人にとっては違う形をしているのです。丸く見えているからといって球だと言い張ることはできないはずなのです。ある人から見たら白い物体も、ある人から見たら、青い物体かも知れないのです。

<つづく>

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16痛みを理解する③


聖書ではあまり背景が書かれていません。登場人物が考えたことの理由も書かれていません。書いてあったとしても、論理的に理解できる理由ではないことも良くあります。その間を埋めることも大事だと思います。その人がなぜそんなことを考えたのか。考えなければいけなかったのか。そういう風に辿って行くこと、登場人物の行動を多少なりとも理解することができます。
ですから同じ人物の話を読んでも自分自身の気分や状態によって捉え方が変わってきます。自分自身の人に対する接し方、考え方によっても違います。天候や、気温によっても変わるかもしれません。空白の埋め方は人の数だけあるはずです。
これは人の痛みを理解する訓練なんだと思います。人を多面的に捉えてその人の奥底にあるものを理解する訓練だと思っています。わたしには難しすぎて、あと100年あっても訓練が終わることなんてないと思いますが、聖書を読む一つの理由はここにあるような気がします。

<第16話おわり>

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16痛みを理解する②


聖書では何時間もかかったことがほんの一瞬のできごとのように書かれています。その時間を理解しないとその中にちゃんと入っていけないこともあります。たとえば、エマオへの道は3時間程度、レプトン銅貨をいれたやもめの悩みは一昼夜、ヤイロは12年というように、すくなくともその時間を理解する必要があると思います。できればその時間を共有するくらい考えた方がよいのかもしれませんが、さすがに一つの話に何年もかけて考えることは難しいので、その時間を回想して、その人の苦しみを何とか理解しようと努力するくらいが私たちにできる限界かも知れません。
<つづく>

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16痛みを理解する①


登場人物に自分を重ねあわせて読んでいくと、イエスが登場人物を癒すだけでなく、私をも癒してくださるのです。登場人物のことを書いているつもりですが、自分の行動や悩み、葛藤がそのまま表れてきます。聖書の中にいる私にイエスは声をかけ、手を触れ優しく癒してくださるのです。
聖書は行間の広い文章だと思います。行間にはいろんな苦しみが詰まっています。そしてその苦しみを理解しようとすることで、人の苦しみが理解できるようになる一方で、自分が理解できる苦しみが分かるようになるのです。自分の苦しみも理解できるようになります。自分の苦しみとか、理解できる苦しみとかと言うことがなかなか分かりにくいかもしれませんが、自分が何で苦しんでいるのか分からないことが良くあります。人に話をすることで理解し、解決方法まで見つけてしまうということが良くあります。それは苦しいと思いながら自分の苦しみを理解していないということだと思います。また人の話を聞いて何が苦しいのかさっぱり分からないということもあります。その人なりの苦しみがあるはずなのに、経験したことがないために理解できないのです。
<つづく>

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15人を理解する③


聖書の中ではそれほど多くのことが書かれていないので、人物そのものを正確に理解することはできません。でもそれはそれでいいような気がします。聖書なのですから、自分の中にある世界を掘り下げて行くことで自分を理解し、人を理解しようとする練習をする。それが大事なことなのかもしれません。
これは一つの試みかもしれませんが、人の考えている事をちゃんと考えてみる。納得のいくまで考えてみるという作業は大事なことだと思います。日常生活の中にあって、これほど人のことを考えることは少ないかもしれませんが、聖書の中なら割合考えやすいようにも思えます。
<第15話おわり>

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15人を理解する②


聖書の人にアドバイスをすることができません。とにかく登場人物の声を黙って聞いて、理解するしかありません。人を理解するために傾聴が重要だということがよく言われますが、その通りです。アドバイスをし始めると、その人を理解するのではなく、自分の世界にその人を閉じ込めようとしてしまうのです。黙って聞く、そしてその人を理解すると言うことが聖書の世界の中では比較的やりやすいように思えます。
ほんの一節の文章から登場人物の姿を作り上げることは難しいことのように思えますが、実は日常生活の中でもやっていることなのです。会ったことのない人の話を聞いた時、勝手にその会ったこともない人のイメージを作って、想像しながら人の話を聞いているのです。確証が持てないからなかなかそれをちゃんと書き表すことは難しいのですが、いつも自分の中でイメージを作り上げ、そのイメージと照らし合わせて話を聞いています。ですから、自分のイメージに合致することがらであれば「そうそう」と聞くことができますし、違えば「えっ」となるのです。
<つづく>

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15人を理解する①


聖書を読むことによって、わたしたちは聖書の中に入って行くことができます。聖書の中へ入っていくと、そこに書かれていることは自分自身の中で起こった出来事になります。
聖書の中に入ってイエスに出会うことは、イエスの「愛する弟子」になることを意味しています。
登場人物を具体的にすることで、自分の悩みを明らかにすることができます。苦しみを知り、その理由が分かるようになります。価値観がはっきりと示されます。大切にしていること、嫌なこと、やるべきこと、出来ていないことがそこに現れてくるのです。
聖書に登場する人々は皆、心に傷を持ち、苦しんでいます。強い人は勇気を振り絞って、前に進もうとします。弱い人は流れに流されて、自分の意志とは別の方向に進んでしまいます。でもどちらの人にもその人なりの考えと理由があるはずです。自分の苦しみをそこにのせることでその苦しみを理解できます。そして、目の前にいる人の苦しみをも理解することができるようになります。そうなってこそ聖書を読んだと言えるような気がします。
<つづく>

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