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サンタクロースの日


カトリックの暦では、今日12月6日は聖ニコラオ司教の記念日となっています。
「聖ニコラオ」って言われてもなかなかピンときませんが、
ギリシア語でニコラオス
ラテン語でニコラウス
スペイン語でや英語ではニコラス
セント・ニコラスです。つまりサンタクロースの記念日です。
こんな日があるとはまったく知りませんでした。

手元にあるフランシスコ教皇の本を開いたら、たまたまこんなページにあたったので、
ちょっと読んでみることにしましょう。


注)本の通りではありません

真の喜びは物を所有することからはきません。
真の喜びは出会いから、他の人たちとの関係から生まれます。
受け入れられたこと、理解されたこと、愛されたことからうまれます。
受け入れること、理解すること、愛することからもうまれます。
喜びは出会いが無償であることから生まれます。
誰かが「あなたはわたしにとって大切」と言っているのを聞くことです。
必ずしも言葉で聴く必要はありません。
神がわたしたちに理解させてくださるのも、こうした言葉です。
神はわたしを招いて
「あなたはわたしにとって大切です。わたしはあなたを愛し、あなたを信用しています。」
と言われます。
イエスは、このことをわたしたち一人ひとりに言われます。
喜びはそこから生まれるのです。


わたしたちはクリスマスの準備に余念がありませんが、クリスマスははどんな日なのだろうかと考えさせられる言葉です。
高価なプレゼントはなくても、ケーキもなくても大切な人と時間を共有することによって大きな喜びが得られることを教えてくれる言葉でもあります。

イエスさまがなぜこの世に人間の姿で生まれたのか、わたしたちはクリスマスに何をお祝いしたらよいのか考えてみませんか?
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愛を示す

フランシスコは四旬節の書簡で
愛は所有するすべてのものを分かち合い、コミュニケーションによってそれを啓示します。と述べられました。
愛について、わたしたちはもっと考えてみるべきなのかもしれません。

愛するためには相手が必要です。当たり前のことですが、それすら分かっていないのかもしれません。一人でどれだけ頑張っても、一人で愛を実現することはできません。自分の考えだけで相手を愛することはできないのです。つまり愛することは相手の考えを理解するところから始まります。

考えを理解することは簡単ではありません。自分の思う愛と相手の考える愛は往々にして違います。自分の考えを押し付けず相手の考える愛の形を実現しないと相手は愛してくれたとは思わないでしょう。時には自分の考えを押し殺さないといけない時もあるでしょうが、その人に愛を表現しようと思うのであれば、コミュニケーションによって相手を理解し、相手をそのまままるごと受け入れる態度が必要だということになります。

金品を分かち合うことによって愛が表現できるでしょうか。たしかに愛した証しとして贈り物をしたり、財産を共有したりすることで愛していることに対する信用を得ることができるかもしれません。ただ、それは目に見える形にしただけのものであり、そのこと自体が「愛」というわけではないはずです。

愛の行為を具体的に考えてみた時、相手の愛が分かるのは苦しい時かもしれません。苦しい時に心の支えとなってくれる人にこそ愛を感じるのではないでしょうか。ひょっとすると愛は苦しみを相手と共有する中に存在するということなのかもしれません。

パウロは「コリントの信徒への手紙」の中で
愛は忍耐強い。愛は情け深い。嫉まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


と書いているのですが、相手を理解するところから始めて、相手を受け入れ、自分を押し付けず、代償を求めずに相手に寄り添って支え続ける姿勢が感じ取れそうです。



ブログ村「聖書・聖句」カテゴリー [https://philosophy.blogmura.com/bible/ranking.html ]

神に近づく


フランシスコ教皇、一般謁見の中での言葉です。

神から、教会から、遠く離れていると感じる人、
自信がなかったり無関心だったりする人
今さら変われないと思う人
に言いたいことがあります。
主は、あなたが神の民の一部となるように招いておいでです。


わたしたちはやらないといけないことを知っていますが、
その目的と自分との間に線を引いてしまいました。
その線は垣根となり、次第に高い塀となって超えることが難しくなっています。
でもその高さは物理的な高さではなく、心理的なものなので、
なんとか思い切ることさえできれば、簡単に飛び越えることができます。
いや、その時もうすでに塀の高さは低くなっています。

次の一歩を踏み出せないのは人の目を気にしているからです。
過去のしがらみに囚われているからです。
神さまは遠い所から見ておられると勝手に思っていますが、
本当はすぐそばにおられます。
神さまとの間に境界線を引いてしまったのは自分自身です。
そこにできた壁はあまりにも高く、
飛び越えることが不可能なようにさえ思えます。
でも、前の例と同じことです。
神さまに近づくことを決心すれば、
神さまの方から近づいてきてくださるのです。

神に近づきなさい。
そうすれば、神は近づいてくださいます。(ヤコブの手紙4:8)

独善的偽善者


教皇フランシスコの説教の中に
「つねに他の人を批判する必要を感じている独善的偽善者」
という言葉がありました。

こういう人たちは罪びとを見て
「わたしは彼らのようではないことを神に感謝します」
と祈る人たちのことだと指摘しています。
(ルカ18:11を参照してください)

ちょっと強烈な言葉で、「ドキッ」とします。

たしかに人を批判することによって自分を守ろうとする人がとっても多いようにも思えます。
人を批判することによって自分がいかに正しい人間なのかを示そうとする人もいます。
正論を吐いて、「あなたは正しく進むことができない人間」だと非難する人たちです。

堅苦しく、こぎれいできちんとしたキリスト者が、そうなのだと指摘します。
ルールを守ることを重視して、人のことを忘れてしまっていはいけないという
警告なんだと思います。

ルール通りに進めることが本当に良いことではありません。
人間がルールを守るために存在しているのではなく、
人間を守るためにルールが存在しているのだということを
ちゃんと理解しなければなりません。

わたしたちは理論と向き合うのではなく、生きている人と向き合わねばならないのです。


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いつも訪問していただいているみなさん、ありがとうございます。
なかなか忙しくて、こちらの方まで手が回らなくなっています。
もう、サイトをクローズしてしまおうかとも思うくらいの状態だったのですが、
教皇フランシスコの本を読もうと思い立ったので、
(更新は不定期になると思いますが、)
時間がある時に、感じたことを書いてみることにします。