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マザー・テレサ ~二つの聖体拝領


マザー・テレサの講演の内容なので、ご存知の方も多いかもしれませんが、内容を簡単に書き記しておこうと思います。

「わたしは毎日二つの聖体拝領で生きています」という話です。
「一つは朝、祭壇からパンの形でいただいています。」
  これがカトリックや聖公会が行うミサの中で与えられるご聖体です。
「二つ目は町中で貧しい人の中でいただいています。」
  ・・・これはいったい何のことだろうと思うのですが、こういうことでした。
「この間、わたしが歩いていたら溝に何か落ちていました。引き上げてみたらおばあさんです。そして体はネズミにかじられウジがわいていました。連れて帰って体をきれいに拭いてあげて抱いたら、おばあさんがぱっと目を開いてわたしを見て、『サンキュー』と言って、静かに息を引き取りました。その顔は、それはそれはきれいでした。」

「このおばあさんがご聖体」だったと言われるのです。
わたしたちはミサに与り、ご聖体を頂いて、イエス・キリストが自分の体の中に留まることを意識します。
クリスチャンでなければなかなか理解しにくいことですが、
このご聖体によって、日々の喜びを分かち合い、日々の苦難を乗り越えるのです。

マザー・テレサにとっては、この死にかけたおばあさんもご聖体でした。
半ば世の中から見捨てられた人間が、人間性を取り戻し、マザー・テレサに感謝し、喜びを分かち合おうとしたのです。
マザー・テレサにとってはその喜びの分かち合いが、イエスキリストの体そのものだったのです。

これはわたしたちも同じはずです。
ほんのちょっとしたことであっても、手を差し伸べて喜んでもらえたことが、自分自身にとって大きな喜びになり、その中に神さまの恵みを見出すのです。

喜びを分かち合うことができる人と人との関係こそがわたしたちを生かしてくれる活力になるのだと思います。

運命 いのちをはこぶ


今日、粕谷神父さまの本を読んでいたら、「運命」という言葉が出てきました。「いのち を はこぶ」と書いて「運命」です。別に「いのちをはこぶ」と読まなくても良いのかもしれませんが、その時その文字を見た瞬間、そう読めてしまいました。
粕谷神父さまはほんの中で「めいをはこぶ」という観点で考えておられたのですが、わたしは、「いのち」を「運ぶ」ことがどうして運命なのだろうかと考え出しました。

「運命」を辞書で調べてみると、「人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。」と書いてありますが、「いのちをはこぶ」こととはなかなか結びつきません。そういえば「命運」という言葉もありました。同じように辞書を調べてみると「そのことの存続にかかわる重大な運命。」とあり、「運命」に戻ってきてしまいました。
もう一度「運」と「命」に分けて調べてみると、
運:その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせ
命:神託、みこと、みことのり、目上の者からの指示、指令。
ということなので、「神さまから与えられた、わたしたちには抗うことのできない出来事」という理解になります。

そう理解してみると、「あぁ、なるほど」と思う反面、わたしたちは「運命」を神さまから与えられた出来事だと捉えているだろうかという疑問が湧いてきます。そんな小難しいことを考えずに単純に「神さまのところから運ばれてきた命令」と理解したらいいじゃないかと言われるかもしれませんが、「運命」に神さまが関わっているということであれば、神さまの命令に対して受け身ではまずいだろうし、可能ならそれはわたしたちのために行われたことであることを理解したいのです。

「運命」という言葉はベートーヴェンの交響曲のように衝撃的なイメージを持っています。そして、自分ではどうにもならないことだと考えています。自分の不運を嘆くときに使うことがほとんどで、自分の意志が働かない状態になっており、その時自分自身の中から神さまの存在はなくなっています。
でも、神さまはわたしたちに悪いものを与えません。何か理由があって使命を与えられるのです。これは将来生きる糧になり、自分自身が生まれ変わるための新しい命となるはずです。わたしたちはこの「いのち」を運び、結実させなければならないのです。

良い巡りあわせに「運命」を感じることもあります。自分が出来事に翻弄されながらも、たどり着いた結果が良いものであったとき、神さまに感謝し、その運命が長く続くようにと願います。しかし、その「運命」は通過点でしかありません。その時点から始まった自分自身の新しい「いのち」を育み、みこころに従って生きる取り組みが始まるのです。

運命と思える衝撃的な出来事に出会った時、そこで立ち止まるのではなく、そこから「いのち」を「運ぶ」仕事が始まるのです。良い出来事であっても、悪い出来事であってもみこころを理解して結実させる努力をしなければなりません。運命だからと諦めたり、嘆いたりするのではなく、わたしたちは神さまの「めい」を受け、自分自身の「いのち」を背負って歩まねばならないのです。


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聖書は堅苦しい読み物ですか?


昨日に引き続き、雑談です。
「聖書って堅苦しい読み物ですか?」
と聞かれたら、どう答えましょう?
大きく首を縦に振って「はい!」でしょうか。
「聖書は椅子に正しく腰掛けて読むものですか?日本だったら正座?」
と聞かれたら、
「もちろん」と答えるでしょうか?
ほとんどの方がそう思っているかもしれませんが、
聖書を読んでいるうちに、どうもそんなものではないような気がしています。

聖書の中には様々な人間像が描かれています。
それは読んでいる本人に似た人もいれば、目の前にいる人に似ている人もいます。
そんな人たちの考えが書かれているのですから、もっと、日常に近いものだと思うのです。

聖書に登場する人たちを見ながら、
「あぁ、こいつどうしようもない奴だな、俺だったらもっとうまくやるのに」と思ったり、
「バカな奴、こういう結末になることは最初からわかってただろう」と思ったり、
「この人、ほんとうに一生懸命。何とか助けてあげられればいいのに」と思ったり
「なんで目の前の困っている人を見捨てるの!」て思ったり、
なんかそういう感情が大切なような気がします。

たしかに神さまが登場し、神さまの教えがありと、宗教的な読みものであることは間違いありません。
信仰が深まるに従って読み方が変わることも確かです。
でも、そんな読み方をしなくても、寝転がって、1ページを読んでみて、
「あぁ、こいつ・・・」
それでいいような気がします。

もっともっと、読み込むと、
「神さまは何を言いたいんだろう」、
「わたしはどうしたらいいんだろう」
と考えることになるのですが、
そんなことを気にするよりは、
自分に似た人間を探すような読み方をした方が断然楽しいし、ためになりそうです。

途中の1ページを開いて、よくわからないところは読み飛ばし、
好きなところをちょっとだけ読んでみる。
それでいいと思います。

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ありゃま

こんなことってあるんですね。
いろいろと試しながらやっていたら、3日分まとめて公開してしまっていました。気づいた時にはすでに拍手もいただいていて、記事を削除するわけにもいかず、「まぁ、いいか」という感じです。
ちょっと気になるのはよくよく見ると未来の日付なんですよね。
「これってどうなん」と思うのですが・・・。(公開を選んでも未来日を設定できるって、ちょっと。。。)

ついでにちょっとだけ自己紹介をしておきます。
聖書のことばっかり書いているのはクリスチャンだからでした。
ここ10年ほど聖書を読んでいるのですが、どうも読めば読むほどわからなくなる読み物です。
感想を書くようになったきっかけは聖書100週間というプログラムで、
聖書を100週間かけて通読しようというものなのですが、ちゃんと感想をグループの中で発表しないといけないので、
3年間(途中夏休みとかもあるので3年ほどかかりました)毎週よく読んだなと思うくらいです。

数年前に、「聖書ってどんなことを書いているのか説明して」っと言われて、
「うーん、一言ではなかなか」
と思いながら
「じゃあ、1か月ほど書いてみます」
と言って、結局7か月ほど書いて読んでもらってました。
そこから、聖書を読んでは感想を書く日が続いて、何人かの人に読んでもらったりしていたのですが、昨年5月に衝動的にYahooでブログを立ち上げて、そこで、今まで書いてきた分を載せ始めました。
そして11月末に2つ目をFC2で始めて見たのですが、これも衝動的に立ち上げたのでした。