赤い人の手紙

なかなか更新できてなくて申し訳ありません。

「赤い人の手紙」をご存知でしょうか。
アメリカ開拓時代にインディアンの酋長が大統領にあてて書いた手紙です。
ちょっとだけご紹介したいと思います。


ワシントンの大統領のお便りによれば、我々の土地を買い上げたいとのこと。友情と好意のおことばも添えてあります。あなたがたの申し出を考慮させていただきます。われわれが売らなければ、白い人は銃をもってわたしどもの土地を取り上げにくるかもしれませんから。この申し出の考え方は我々にとっては不慣れなものです。大気の新鮮さや水の輝きもこの地域のどの部分もそれは聖なるものです。輝く松葉、砂浜、奥深い森の霧、すべての切り透かし、そしてハミングする虫たち、みな、この民の思いの中で、また体験の中で聖なるものなのです。
だからワシントン大統領さまの、我々の土地を買いたいという申し出は、我々にとってあまりに大きな要求です。我々が楽に暮らせる代替地を用意する、と申されます。だから我々の土地を買いたいとのご希望は考えてみましょう。しかしそれは容易なことではありません。なぜならこの土地は我々にとって、聖なる土地だからなのです。

こんな書き出しで始まっている手紙です。この部族に何が起ころうとしているかは十分推測ができます。

<略>
今まで赤い人々は、白人の侵攻の前にいつも退いてきました。ちょうど、山の霧が朝日の前から逃げるように。しかし我々の先祖の遺骨は聖なるものであり、その墓地も、その丘も、その木々も、その土地も、我々にとって聖別されたものなのです。白い人は、我々の生き方を理解しません。彼にとって一つの区画の土地は、次のもう一つの区画の土地と同じものです。彼は夜やってくる異邦人のように、その土地から彼に必要なものをなんでも取り上げます。そして征服が終わると次へと移ってゆくのです。彼は母なる大地や兄弟なる空を、買い取ったり、分捕ったりするもののように、また、売り渡す羊や輝く飾り玉のように扱います。彼の欲望は大地からすべてを収奪し、あとにはただ砂漠を残すだけでしょう。
わたしにはわかりません。我々の生き方はあなたがたの生き方とは違うのです。白い人の年の景観は、赤い人の目を傷めます。たぶん、赤い人が野蛮人で、事情を理解しないからでしょう。白い人の都会には静寂な場所が一つもありません。

この部族は「侵略か譲渡か」を突き付けられて苦渋の決断を迫られています。でもこの酋長は白人の要求を受けることにしました。

<略>
残りの日々をどこで過ごすかは大して重要なことではありません。残り少ない日々です。もう少しの時間、もう少しの冬が過ぎれば、かつてこの土地に生きていた大民族の子どもたち、森の中で流浪している小部族の子どもたちは一人も残らず消えるでしょう。人間は、寄せては返す波のようなものです。

あきらめにも似た言葉ですが、この後に続く言葉に驚かされました。

友が友にするように、その神がともに歩きともに語る白人でさえ、共通の運命から免れるわけにはゆきません。結局、わたしたちは兄弟たちかも知れません。あとでわかるでしょう。ただ一つのことを我々は知っています。白い人はいつの日か発見するかもしれません。それは、「我々のそれぞれの神は同じ神だ」と言うことです。彼は人間の神です。そして彼のあわれみは赤い人に対しても平等です。この大地は神にとってかけがえのないものです。
<後略>

この言葉は聖書の中に書かれている歴史そのものだと思ったのです。聖書を読んだことも見たこともないであろうインディアンの酋長ですが、聖書を読んで内容を知っているはずの白人よりも真理を捉えていたということです。
この文章を紹介している粕谷神父さまは、
「今の世界の不幸というのは、十字架のないキリストを仰ぐ人たちと、キリストのない十字架を背負っている人に分かれる」というある人の言葉を引用していたのですが、わたしたちがどちらに分類されるのかと考えると前者ではないのかと考えさせられます。

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自由とは


自由とはいったいなんでしょう。
「自由とは向かうべき目的地を選べること」と表現する人もいるのですが、どうもしっくりきません。
ゴールを自分の都合だけで選べるような気がしないのです。
好き勝手に振る舞うことができることが自由でないことは知っています。
自由に行動することによって、将来起こる事柄に対して責任を持たねばならないことも知っています。
ということなら、将来起こるであろうことに対して確実に責任をとれる能力が自由に行動する条件とも言えそうです。
でも、何が起こるかわからないことに対して責任を取ることができるでしょうか。
どのように責任をとるというのでしょうか。
後悔しないだけなら、決意だけで何とかなるかもしれませんが、一人で生きることは出来ません。
良いことであれ、悪いことであれ、 必ず周りを巻き込んでしまうのです。
できることがあるとしたら起こる出来事すべてを肯定して受け入れることかもしれません。
たとえ最悪の事態であったとしても、自分の自由という名のもとに選択したのですから。

最悪の事態を喜びとして受け入れることのできる人などいるのでしょうか。
聖書の中ではヨブでさえ、できませんでした。
できた人はイエス・キリストぐらいでしょう。
正しい人が罪人となり、それを自分の栄光の時として十字架にかけられて死んだのです。
逆にイスカリオテのユダは、自分の行動による結果を受け入れることができませんでした。

この差が真の自由を知っている人と、自由という妄想を見ている人間の差なのかもしれません。

完全な喜び


アシジのフランシスコという方をご存知でしょうか。
1200年ごろの聖人でフランシスコ会の創立者です。
フランシスコの祈りは有名ですのでご存知の方も多いでしょう。
その聖フランシスコが「完全なよろこび」について述べています。

・・・わたしたち修道士が、どんなに清い行いをして全世界にお手本を完全に示そうとしても…その中には、完全なよろこびはありません。

・・・わたしたち修道士が、目の見えない人の目をあけたり、歩けない人の足を立たせたり、悪魔を追い出したり、口のきけない人や耳の聞こえない人を癒し、口をきけるようにしてやったり、あるいはイエスさまのように、死んでから四日もたった人間を墓の中から生き返らせるような不思議な軌跡を行ったとしても・・・その中には、完全なよろこびはありません。

・・・わたしたち修道士がどんなに深く学問を治めて、あらゆる国のことばを語り、あらゆるとうとい書物を読破し、未来のことがらや、人の心の奥の秘策を知り得たとしても・・・その中には完全なよろこびはありません。

・・・わたしたち修道士が、天使の使うことばを話したり、あるいは大空のすべての星の軌道を知り、薬草の力や、血の宝、鳥やこものや魚の特質を知り、それからまた、人間や植物や石や河川や湖などの性質をどんなにくわしく調べ尽くそうとも・・・その中には完全なよろこびはありません。

・・・わたしたち修道士が、すべての不信仰者たちを、キリストの信仰へと回心させるようなりっぱな説教をすることができようとも、・・・その中には完全なよろこびはありません。

これから、われわれがポルティウンクラの修道院へ着くと、門番は、雨にずぶぬれになった、われわれのみすぼらしい姿を見て、”このどろぼう、乞食め”とどなってわれわれを追い出すだろう。そのとき、その門番たちに対して腹を立てず、謙遜に、なさけぶかく、彼らのため神の祝福を祈るなら、ここに完全なよろこびがあります。

主キリストの愛のために苦しむ意外のところには、どこにも完全なよろこびはありません。

おそらく、これはクリスチャンでもわからない表現です。これはこの旅路で同伴した修道士に諭すように教えているのですから、簡単にわかるような話ではなさそうです。

分からないなりに、フランシスコの言われていることを整理してみると
自己の必要を満たすだけでは完全な喜びは得られない。
他者の必要を満たすだけでも完全な喜びは得られない。
知識を持つことで完全な喜びは得られない。
技能や能力を身に着けても完全な喜びは得られない。
ということなのです。

わたしたちは自分が認められ、受け入れられることに大きな喜びを感じるのですが、
それでは完全とは言えず、
存在を否定され、拒絶されることも受け入れた時、完全な喜びになると言われているようです。

これを実践したのが、イエス・キリストでした。
イエスさまは、ユダヤの地で存在を否定され、十字架刑に処されたのですが、
それを受け入れ、執行した人たちのために祈ったのです。
存在を否定された場の中にいることは辛いことですが、
イエスさまとわかちあえるだけの体験をしたということは
人を理解するうえで、重要な経験となるはずです。
その中にも喜びを見出せるようにならないと、いけないと言われているのだと思うのですが、
・・・これは、難易度が高いです・・・。

本に書いてあったこの場所が気になって、メモをしたのですが、
なかなか理解が難しいところのように思えます。

愛を示す

フランシスコは四旬節の書簡で
愛は所有するすべてのものを分かち合い、コミュニケーションによってそれを啓示します。と述べられました。
愛について、わたしたちはもっと考えてみるべきなのかもしれません。

愛するためには相手が必要です。当たり前のことですが、それすら分かっていないのかもしれません。一人でどれだけ頑張っても、一人で愛を実現することはできません。自分の考えだけで相手を愛することはできないのです。つまり愛することは相手の考えを理解するところから始まります。

考えを理解することは簡単ではありません。自分の思う愛と相手の考える愛は往々にして違います。自分の考えを押し付けず相手の考える愛の形を実現しないと相手は愛してくれたとは思わないでしょう。時には自分の考えを押し殺さないといけない時もあるでしょうが、その人に愛を表現しようと思うのであれば、コミュニケーションによって相手を理解し、相手をそのまままるごと受け入れる態度が必要だということになります。

金品を分かち合うことによって愛が表現できるでしょうか。たしかに愛した証しとして贈り物をしたり、財産を共有したりすることで愛していることに対する信用を得ることができるかもしれません。ただ、それは目に見える形にしただけのものであり、そのこと自体が「愛」というわけではないはずです。

愛の行為を具体的に考えてみた時、相手の愛が分かるのは苦しい時かもしれません。苦しい時に心の支えとなってくれる人にこそ愛を感じるのではないでしょうか。ひょっとすると愛は苦しみを相手と共有する中に存在するということなのかもしれません。

パウロは「コリントの信徒への手紙」の中で
愛は忍耐強い。愛は情け深い。嫉まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


と書いているのですが、相手を理解するところから始めて、相手を受け入れ、自分を押し付けず、代償を求めずに相手に寄り添って支え続ける姿勢が感じ取れそうです。



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神に近づく


フランシスコ教皇、一般謁見の中での言葉です。

神から、教会から、遠く離れていると感じる人、
自信がなかったり無関心だったりする人
今さら変われないと思う人
に言いたいことがあります。
主は、あなたが神の民の一部となるように招いておいでです。


わたしたちはやらないといけないことを知っていますが、
その目的と自分との間に線を引いてしまいました。
その線は垣根となり、次第に高い塀となって超えることが難しくなっています。
でもその高さは物理的な高さではなく、心理的なものなので、
なんとか思い切ることさえできれば、簡単に飛び越えることができます。
いや、その時もうすでに塀の高さは低くなっています。

次の一歩を踏み出せないのは人の目を気にしているからです。
過去のしがらみに囚われているからです。
神さまは遠い所から見ておられると勝手に思っていますが、
本当はすぐそばにおられます。
神さまとの間に境界線を引いてしまったのは自分自身です。
そこにできた壁はあまりにも高く、
飛び越えることが不可能なようにさえ思えます。
でも、前の例と同じことです。
神さまに近づくことを決心すれば、
神さまの方から近づいてきてくださるのです。

神に近づきなさい。
そうすれば、神は近づいてくださいます。(ヤコブの手紙4:8)