完全な喜び


アシジのフランシスコという方をご存知でしょうか。
1200年ごろの聖人でフランシスコ会の創立者です。
フランシスコの祈りは有名ですのでご存知の方も多いでしょう。
その聖フランシスコが「完全なよろこび」について述べています。

・・・わたしたち修道士が、どんなに清い行いをして全世界にお手本を完全に示そうとしても…その中には、完全なよろこびはありません。

・・・わたしたち修道士が、目の見えない人の目をあけたり、歩けない人の足を立たせたり、悪魔を追い出したり、口のきけない人や耳の聞こえない人を癒し、口をきけるようにしてやったり、あるいはイエスさまのように、死んでから四日もたった人間を墓の中から生き返らせるような不思議な軌跡を行ったとしても・・・その中には、完全なよろこびはありません。

・・・わたしたち修道士がどんなに深く学問を治めて、あらゆる国のことばを語り、あらゆるとうとい書物を読破し、未来のことがらや、人の心の奥の秘策を知り得たとしても・・・その中には完全なよろこびはありません。

・・・わたしたち修道士が、天使の使うことばを話したり、あるいは大空のすべての星の軌道を知り、薬草の力や、血の宝、鳥やこものや魚の特質を知り、それからまた、人間や植物や石や河川や湖などの性質をどんなにくわしく調べ尽くそうとも・・・その中には完全なよろこびはありません。

・・・わたしたち修道士が、すべての不信仰者たちを、キリストの信仰へと回心させるようなりっぱな説教をすることができようとも、・・・その中には完全なよろこびはありません。

これから、われわれがポルティウンクラの修道院へ着くと、門番は、雨にずぶぬれになった、われわれのみすぼらしい姿を見て、”このどろぼう、乞食め”とどなってわれわれを追い出すだろう。そのとき、その門番たちに対して腹を立てず、謙遜に、なさけぶかく、彼らのため神の祝福を祈るなら、ここに完全なよろこびがあります。

主キリストの愛のために苦しむ意外のところには、どこにも完全なよろこびはありません。

おそらく、これはクリスチャンでもわからない表現です。これはこの旅路で同伴した修道士に諭すように教えているのですから、簡単にわかるような話ではなさそうです。

分からないなりに、フランシスコの言われていることを整理してみると
自己の必要を満たすだけでは完全な喜びは得られない。
他者の必要を満たすだけでも完全な喜びは得られない。
知識を持つことで完全な喜びは得られない。
技能や能力を身に着けても完全な喜びは得られない。
ということなのです。

わたしたちは自分が認められ、受け入れられることに大きな喜びを感じるのですが、
それでは完全とは言えず、
存在を否定され、拒絶されることも受け入れた時、完全な喜びになると言われているようです。

これを実践したのが、イエス・キリストでした。
イエスさまは、ユダヤの地で存在を否定され、十字架刑に処されたのですが、
それを受け入れ、執行した人たちのために祈ったのです。
存在を否定された場の中にいることは辛いことですが、
イエスさまとわかちあえるだけの体験をしたということは
人を理解するうえで、重要な経験となるはずです。
その中にも喜びを見出せるようにならないと、いけないと言われているのだと思うのですが、
・・・これは、難易度が高いです・・・。

本に書いてあったこの場所が気になって、メモをしたのですが、
なかなか理解が難しいところのように思えます。
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愛を示す

フランシスコは四旬節の書簡で
愛は所有するすべてのものを分かち合い、コミュニケーションによってそれを啓示します。と述べられました。
愛について、わたしたちはもっと考えてみるべきなのかもしれません。

愛するためには相手が必要です。当たり前のことですが、それすら分かっていないのかもしれません。一人でどれだけ頑張っても、一人で愛を実現することはできません。自分の考えだけで相手を愛することはできないのです。つまり愛することは相手の考えを理解するところから始まります。

考えを理解することは簡単ではありません。自分の思う愛と相手の考える愛は往々にして違います。自分の考えを押し付けず相手の考える愛の形を実現しないと相手は愛してくれたとは思わないでしょう。時には自分の考えを押し殺さないといけない時もあるでしょうが、その人に愛を表現しようと思うのであれば、コミュニケーションによって相手を理解し、相手をそのまままるごと受け入れる態度が必要だということになります。

金品を分かち合うことによって愛が表現できるでしょうか。たしかに愛した証しとして贈り物をしたり、財産を共有したりすることで愛していることに対する信用を得ることができるかもしれません。ただ、それは目に見える形にしただけのものであり、そのこと自体が「愛」というわけではないはずです。

愛の行為を具体的に考えてみた時、相手の愛が分かるのは苦しい時かもしれません。苦しい時に心の支えとなってくれる人にこそ愛を感じるのではないでしょうか。ひょっとすると愛は苦しみを相手と共有する中に存在するということなのかもしれません。

パウロは「コリントの信徒への手紙」の中で
愛は忍耐強い。愛は情け深い。嫉まない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。


と書いているのですが、相手を理解するところから始めて、相手を受け入れ、自分を押し付けず、代償を求めずに相手に寄り添って支え続ける姿勢が感じ取れそうです。



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神に近づく


フランシスコ教皇、一般謁見の中での言葉です。

神から、教会から、遠く離れていると感じる人、
自信がなかったり無関心だったりする人
今さら変われないと思う人
に言いたいことがあります。
主は、あなたが神の民の一部となるように招いておいでです。


わたしたちはやらないといけないことを知っていますが、
その目的と自分との間に線を引いてしまいました。
その線は垣根となり、次第に高い塀となって超えることが難しくなっています。
でもその高さは物理的な高さではなく、心理的なものなので、
なんとか思い切ることさえできれば、簡単に飛び越えることができます。
いや、その時もうすでに塀の高さは低くなっています。

次の一歩を踏み出せないのは人の目を気にしているからです。
過去のしがらみに囚われているからです。
神さまは遠い所から見ておられると勝手に思っていますが、
本当はすぐそばにおられます。
神さまとの間に境界線を引いてしまったのは自分自身です。
そこにできた壁はあまりにも高く、
飛び越えることが不可能なようにさえ思えます。
でも、前の例と同じことです。
神さまに近づくことを決心すれば、
神さまの方から近づいてきてくださるのです。

神に近づきなさい。
そうすれば、神は近づいてくださいます。(ヤコブの手紙4:8)

マザー・テレサ ~二つの聖体拝領


マザー・テレサの講演の内容なので、ご存知の方も多いかもしれませんが、内容を簡単に書き記しておこうと思います。

「わたしは毎日二つの聖体拝領で生きています」という話です。
「一つは朝、祭壇からパンの形でいただいています。」
  これがカトリックや聖公会が行うミサの中で与えられるご聖体です。
「二つ目は町中で貧しい人の中でいただいています。」
  ・・・これはいったい何のことだろうと思うのですが、こういうことでした。
「この間、わたしが歩いていたら溝に何か落ちていました。引き上げてみたらおばあさんです。そして体はネズミにかじられウジがわいていました。連れて帰って体をきれいに拭いてあげて抱いたら、おばあさんがぱっと目を開いてわたしを見て、『サンキュー』と言って、静かに息を引き取りました。その顔は、それはそれはきれいでした。」

「このおばあさんがご聖体」だったと言われるのです。
わたしたちはミサに与り、ご聖体を頂いて、イエス・キリストが自分の体の中に留まることを意識します。
クリスチャンでなければなかなか理解しにくいことですが、
このご聖体によって、日々の喜びを分かち合い、日々の苦難を乗り越えるのです。

マザー・テレサにとっては、この死にかけたおばあさんもご聖体でした。
半ば世の中から見捨てられた人間が、人間性を取り戻し、マザー・テレサに感謝し、喜びを分かち合おうとしたのです。
マザー・テレサにとってはその喜びの分かち合いが、イエスキリストの体そのものだったのです。

これはわたしたちも同じはずです。
ほんのちょっとしたことであっても、手を差し伸べて喜んでもらえたことが、自分自身にとって大きな喜びになり、その中に神さまの恵みを見出すのです。

喜びを分かち合うことができる人と人との関係こそがわたしたちを生かしてくれる活力になるのだと思います。

運命 いのちをはこぶ


今日、粕谷神父さまの本を読んでいたら、「運命」という言葉が出てきました。「いのち を はこぶ」と書いて「運命」です。別に「いのちをはこぶ」と読まなくても良いのかもしれませんが、その時その文字を見た瞬間、そう読めてしまいました。
粕谷神父さまはほんの中で「めいをはこぶ」という観点で考えておられたのですが、わたしは、「いのち」を「運ぶ」ことがどうして運命なのだろうかと考え出しました。

「運命」を辞書で調べてみると、「人間の意志を超越して人に幸、不幸を与える力。」と書いてありますが、「いのちをはこぶ」こととはなかなか結びつきません。そういえば「命運」という言葉もありました。同じように辞書を調べてみると「そのことの存続にかかわる重大な運命。」とあり、「運命」に戻ってきてしまいました。
もう一度「運」と「命」に分けて調べてみると、
運:その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせ
命:神託、みこと、みことのり、目上の者からの指示、指令。
ということなので、「神さまから与えられた、わたしたちには抗うことのできない出来事」という理解になります。

そう理解してみると、「あぁ、なるほど」と思う反面、わたしたちは「運命」を神さまから与えられた出来事だと捉えているだろうかという疑問が湧いてきます。そんな小難しいことを考えずに単純に「神さまのところから運ばれてきた命令」と理解したらいいじゃないかと言われるかもしれませんが、「運命」に神さまが関わっているということであれば、神さまの命令に対して受け身ではまずいだろうし、可能ならそれはわたしたちのために行われたことであることを理解したいのです。

「運命」という言葉はベートーヴェンの交響曲のように衝撃的なイメージを持っています。そして、自分ではどうにもならないことだと考えています。自分の不運を嘆くときに使うことがほとんどで、自分の意志が働かない状態になっており、その時自分自身の中から神さまの存在はなくなっています。
でも、神さまはわたしたちに悪いものを与えません。何か理由があって使命を与えられるのです。これは将来生きる糧になり、自分自身が生まれ変わるための新しい命となるはずです。わたしたちはこの「いのち」を運び、結実させなければならないのです。

良い巡りあわせに「運命」を感じることもあります。自分が出来事に翻弄されながらも、たどり着いた結果が良いものであったとき、神さまに感謝し、その運命が長く続くようにと願います。しかし、その「運命」は通過点でしかありません。その時点から始まった自分自身の新しい「いのち」を育み、みこころに従って生きる取り組みが始まるのです。

運命と思える衝撃的な出来事に出会った時、そこで立ち止まるのではなく、そこから「いのち」を「運ぶ」仕事が始まるのです。良い出来事であっても、悪い出来事であってもみこころを理解して結実させる努力をしなければなりません。運命だからと諦めたり、嘆いたりするのではなく、わたしたちは神さまの「めい」を受け、自分自身の「いのち」を背負って歩まねばならないのです。


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